2005年7月に旧中山道六十九次を踏破して以降、次は奥の細道かと8月26日に芭蕉の出発の場所、深川を訪れ深川めしを食べた。奥の細道が2400kmもあることに怖気ついて、しばらくご無沙汰していた。
新年にあたり、一句を詠んだ。
「奮い立て 齢(よわい)を重ねて 奥の細道」 青びょうたん
「青びょうたん」のペンネームは、学生時代仲間と雑文を書いていた時代のペンネームで、しばらく忘れていたが、一句詠んだ時思い出した。実に30年ぶりの解禁と言える。というわけで、その句に叱咤激励されて、1月12日に日本橋から千住宿までの10kmを歩いた。
江戸風の三井越後屋
日本橋へは3度ほど歩いて行っているのに間違えて、呉服橋から日本橋へ。ガイド本の地図が大まかで江戸風の三井越後屋を右折してしまい、旧日光街道に確信がもてなくて、江戸街道に入ってから「さわやか信金」で訪ねて軌道修正したが、旧日光街道碑をすでに通り過ぎてしまっていた。じきに横山町問屋街から浅草橋交差点へ、右折すると両国橋にいたる。直進すると人形店が目立つ。浅草橋のガードをくぐる。10時24分、柳橋2丁目の交番の脇にトイレがあり、すぐ近くに榊神社があり参拝する。さらに直進で駒形町1丁目の諏訪神社、承久の乱(1221年)後の建立か、そこから江戸のグルメで知られる駒形どぜうの店が見える。 |
日本橋 |
アサヒビールのオブジェ |
駒形橋西詰で、角には朱色の駒形堂、遠景にアサヒビールの炎のオブジェが見える。黄色いはとバスがわずか2名のお客を乗せて浅草観音の方へ走り去る。
10時57分、雷門前の人力車は手持ち無沙汰だが、流石に周辺は賑わいを見せている。4日前に此処に初詣で来たばかりなので、右折して先を急ぐ。雷門は風神と雷神が安置されており、昭和35年に95年ぶりに再建されたことを知って驚いた。昔からあるものと思っていた。昔の川柳も面白い。「門の名で みれば風神 居候」 |
待乳山聖天宮 |
駒形どぜう |
雷門前の人力車 |
松屋を左折して江戸どおりへ入ると靴屋さんが目立つ。早くも右足の股関節に痛みが走る。
言間橋西詰のY字の左手に進行、正面に「待乳山聖天宮」の看板があり、右手奥にそれらしい小森が見える。昔は大きな松山と呼ばれ、頂上からの展望がよく江戸の行楽地だったそうな。参拝後、江戸通りに戻り、「おいでやラーメン」に入る。11時25分、「全て手作り無添加仕上げ 備長炭で焼く 燻りチャーシュー」のキャッチコピーに魅せられた。麺は好みではなかったが、コピーどおり、スープとチャーシューは美味い。 |
おいでやラーメン |
大隈公園があり、その下に「奥の細道 |
高層鉄筋のビルに収まった正法寺の前をすぎて、明治通りを横切り「泪橋」を通過、荒川区にはいる。30分歩くと南千住陸橋。階段を下りるとそこは東京メトロ日比谷線南千住駅、右折すると常磐線JR南千住駅になる。
しばらくアーケード商店街を直進、ようやく千住大橋に着く。1594年、家康が隅田川に最初に架けた橋で、「御橋」と呼ばれた。芭蕉は1689年(元禄2年)5月16日、東京深川から舟で発ち、この地に着いた。川向こうの岸に大隅公園があり、その下に「奥の細道 旅たちの地につく・・・・」の案内が壁に描かれている。 |
さらに直進すると青果店が続き、左手に「千住宿歴史プチテラス」が掲げられた看板がある。奥に土蔵がある。紙問屋横山家にあった土蔵を移築され、資料館になっているようだ。このあたりは、昔から青果物問屋街だった「元やっちゃば跡」という。正面に芭蕉の石碑「鮎の子の しら魚送る 別哉」がある。周辺の家屋の前には昔の屋号が表示され、昔の街道を偲ばせる。「千住仲町」交差点の角に源長寺、手前入り口に延命子育て地蔵尊が奉納。 |
紙問屋横山家 |
氷川神社 |
商店街が続き、アーケード門に「宿場町 北千住サンロード商店街」右手は北千住駅になる。街灯に大黒天・氷川神社の広告があり、狭い路地を左手に100mほど行くと突き当たりに氷川神社。茅の輪をくぐり、商売繁盛の願いを込めて参拝する。旧道に戻り、右手に江戸期の紙問屋横山家が美しい建築美を見せている。13時20分、足の限界もこの辺りかなと見切りをつけて戻り、理髪一番千住店に入り、理髪を頼む。これが予想以上に気持ちの良い店で、とても丁寧で体のマッサージも時間をかけてくれる。理髪料は2300円で、さらに「3ヶ月間有効ですよ」と割引券をいただいた。ついで書店に駆け込んで、日光街道関係の資料はないかと訪ねる。「町雑誌 千住」が地元の有志で発行され、特集「江戸四宿」、「千住の仕掛け人」を購入した。さすがに地元の情報は詳しい。14時25分JR北千住駅へ到着する。(2006.1)
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