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第16回
遊行柳〜白河の関〜矢吹
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始発電車に乗り、新幹線・東北本線を乗り継ぎ、8時30分黒磯駅着。バスの時間は9時45分でまだ時間があるのでタクシーで移動し前回訪れた遊行柳8時50分到着。国道294号線を北上しながら歩き始め、しばらく曲がりくねった奈良川を何度か渡る。寄居で逆Y字路の右角に「諭農の碑 板屋の一里塚」の看板あり。すぐ先に、「右脇澤高瀬を経て芦野 左寄居白坂を経て白河」の道標石碑がある。
9時55分、旧寄居小学校反対側に石地蔵尊が建ち、左から旧道が合流する豆沢で「遊行柳から5.5km、白河関5.8km右折」の標識。150m先に泉田の一里塚がある。説明文によると「陸羽街道沿いの本町内に3ヶ所の一里塚(夫婦石・板尾・泉田)の内、最北にある」寄居下久保で左折、旧道へ入る。このあたり一帯は石切り場で国道の両脇の山は切り崩されている。右手下に二十三夜塔、地蔵立像、馬頭天神などの石塔が10体ある。身近な木々の根元を見ると岩に根を張る様子が見てとれる。
11時02分、県境手前に境の明神(玉津島神社)、先の福島側には境神社がある。境の明神は元喜元年(1053年)紀州和歌の浦の玉津島神社の分霊勧請したもの。境神社は背後のうっそうたる樹木の囲まれた風情ある趣の立派な社殿。社殿は天保2年(1831年)建立とある。安永6年(1777年)建立の芭蕉句碑「風流の初めやおくの 田植えうた」がある。
ここからは車の通行が少ない。緩やかなカーブの続く雑木と杉の植林の間を縫うような道路を下っていく。脇にはわずかな広さの田圃の刈入れ跡ががまだらに見える。11時55分、呼金神社を過ぎ、20分後T字路を右折、すぐ左に大きな馬頭観石碑がある。ここから白河の関は約2kmとある。さらにT字路(県道76号線)を右折、芭蕉が宿泊した旗宿を経て、12時45分ついに白河の関だ。
長い階段を登って白河神社へ。白河の関は7世紀半ばに設けられた関所で、勿来(なこそ)関、念珠(ねず)ヶ関とともに奥州三関と呼ばれた。昭和30年代の発掘調査で、土塁、累跡、柵跡、門跡などの遺構が確認され、今こうして広い遺構を目にすることができる。落ち葉が堆積された柔らかい古道を踏みしめる。伊達政宗の造営とされる神社本殿の左脇に、古歌碑がある。
能因法師「都おば霞と共にたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」
平兼盛「便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと」
芭蕉が訪れたときにはすでに関屋は残っていなかったらしい。曾良の句「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」私は今回で16回江戸から行き来している。芭蕉らは二百数十キロを歩き、ようやく白河の関にたどり着いた。その感動はいかばかりか。その感動をなんとかして江戸へ伝えようとの心情は理解できる。そうした心情を前提とした読み歌は読み手に伝える重みは現代のわれわれの感じ方とは幾分異なる。遺構内の小道を抜けて、白河関の森公園のレストランで手打ち蕎麦を所望する。この蕎麦は近所の蕎麦畑の産だとのこと。
13時50分白河市街地へ向けて出発。来た道を戻り、1時間ほどで白坂への分岐点「亀石橋」に着く。少し前から雨が降り出していたが、今回に限って珍しく傘を持参しなかった。雨はやむ気配が無く新聞紙を頭にかぶり歩いていると、一度通り過ぎた軽自動車が、またバックしてきて私の真横に停まった。立ち止まった私に運転席から若い男性が傘を持ち「傘を使いませんか。何なら、市街地まで送りましょうか?」と声をかけてくださった。この道路は16時30分頃までバスの便が無いことを知っている地元の方だろう。「実は奥の細道を歩いているので・・・」と同乗は丁重に遠慮し、傘を貸していただいた。というか、返す方法もとっさに浮かばずいただくことになってしまった。「本当にいいんですか?」と恐縮し、助手席にいた女性にもお礼の言葉を述べて別れた。それにしても親切な方がいるものだ。彼が「まだ雨が続きますよ」と言ったとおり、宿に着くまで雨は止まなかった。
今回のこともそうだが、多くの方の人情に支えられて「ようやく奥の細道の入り口」についたなという実感だ。毎回何人もの方に道を尋ねたり、雨を凌ぐ軒を借りたり、飴をいただいたり・・・都会とは異なる人情に感涙することしきりであった。そこで一句
「秋雨や 他人(ひと)の情け知る 関の跡」(マツノ)
15時35分市街地に入り、白河実業高校の信号を左折、さらにフラワーワールドを右折しJR白河駅へ向かう。旧陸羽街道は、本町信号を北上し、女石に抜けるが、宿の関係上直進する。駅を右手に通過し、2つ目の信号を右折し、国道4号線を左折したすぐ右手が本日宿泊の「金勝寺温泉」だ。電話で申込時に「1泊2食付で5,500円と7,500円とがあります」と聞き、5,500円で2食付とはどんな内容だろうかと安い方にしてみた。17時15分頃到着。
鉄筋3階建ての金勝寺温泉は看板に「湯の宿 旅館金勝寺」とある。「鉱泉の出が悪くなり加水・加温しているので、温泉名は言わないようにしました」とのこと。3階の和室は8畳トイレ・ベランダ・洗面所付。大浴場の浴室はタイル張りで清潔だ。浴槽は2m×2.5mで右半分はジャグジーになっいる。夕食は1階の食堂でとる。きくらげの酢の物、とんかつが3枚、巨大なしゅうまい二個、野菜炒め、きゅうりの漬物、ご飯に味噌汁。料金からするともう十分だ。お酒は1合300円と安い。翌朝の朝食時にコーヒーのセルフサービスも付いた。
7時13分に宿を発つ。快晴なので、昨日借りた傘はまた誰かに使ってもらえるように宿に置いてきた。借りた時にせめて宿を伝えておけば良かったと後悔したがもう仕方ない。国道4号線沿いに北上する。次の信号「女石」で旧陸羽街道と合流する。信号の左手に道成寺物語で有名な「安珍生誕地・安珍像」のお堂がある。泉田の先から下り坂、小田川で旧道左折(小田の里)、しばらく東北自動車道沿いに歩く。このあたりどの家も豪華な家造りが多い。バイパス道と徐々に離れ、旧道は山へ入る。ふと左手を向くと赤い頭巾と前掛けをした大きなお地蔵様が鎮座し、なぜか首が繋がれた跡がある。長い年月風雪にさらされたか目鼻立ちがはっきりしない。謂れを近在のお年寄りに聞き、詳しいという方のお宅も訪ねたが留守でわからずじまい。後で調べると「武光地蔵」「首切り地蔵」と言うそうだ。居あい抜きの達人の伊達藩士が江戸に行く途中、妖しい女の影を見て竹光切りつけたが、帰りに再び見ると地蔵の首が離れていたという言い伝えがあるとのこと。
目の前にしだれ桜が立派な常願寺。道なりに右へカーブし公民館の所の小道を左折。下り坂になった道路左手に椅子に座り田畑を見つめるおじいさんに「こんにちは」と挨拶をすると「どちらに行きなさるね」と声をかけてくれた。大正6年生まれの89歳のY・Sさん。奥の細道旧道の話、北海道の美幌で終戦を迎えた頃の話など話題がとどまることがなくしばしその語りを聞く。
4号線バイパス道を横切り、10時に踏瀬(ふませ)の700mにわたる五本松・松並木を通過する。明治18年(1885年)に捕植したもの。10時42分大和久宿集落に入り、山王寺の臥竜の松を見る。樹齢約200年の黒松で東北地方では黒松は珍しい。すぐ先雑木林の中に入ると執心地蔵尊が12体。11時02分、バイパス道の高架をくぐる。やがてJR矢吹駅に到着。芭蕉はこの矢吹の地に泊まっている。 |
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第15回 那須湯本温泉〜芦野・遊行柳 を読む
第17回 矢吹〜須賀川 を読む
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